オリジナル小説 アマガセ
第1話 「すべての始まり」
3
不意に雲の切れ間から覗いた月明かりが、少年たちを照らした。少年の闇色の髪が、月明かりに照らし出され、白銀に輝く。日が暮れてまもない頃、オギは村の安酒場にいた。村に一軒しかない酒場には、仕事を終え、一杯やるためにぞくぞくと集まってきた村人たちのほか、数人の商人がいるだけであった。
「お、兄ちゃん、いい飲みっぷりだね」
筋骨隆々とした中年の男が、大きなグラスを片手に、ビールが入った瓶を持って、オギのテーブルへやってきた。
男は、薄手のシャツに袖無しのベストという出立ちである。暖かい室内でも、毛織物の上着を着ている者もいる中で、男の服装は、かなりの薄着である。
だが本人は、寒さなど微塵も感じていないようであった。
日に焼けた顔を赤くし、上機嫌でビールを注ぐ姿を見れば、この男も他の客同様、すでに出来上がっているのは明らかである。
「もう1杯どうだい?」
「もらおう」
オギは、注がれたビールをあっという間に飲み干した。それを見ていた男は目を丸くし、次いで大声で笑い出した。
「いや〜、いい飲みっぷりだ!!」
「そりゃどうも。この酒場もすごくいい。酒は美味いし、何てったって、女将が美人だ。あんたの女房だろ?」
オギが親指で示す先には、カウンターで客に酒を出す一人の女性がいた。笑うと中年女性に特有の皺が目立つことから、決して若くはないことを物語っている。しかし無駄な脂肪のない引き締まった四肢に鼻筋が通った小顔を持つ彼女は、同じ年代の同性と比べると、間違いなく美人の内に入ると言っていいであろう。
「おう、うちの女房は、えらい別嬪でよく働く、文句なしの女房さ」
「ほー、まったくうらやましい話だね。でも、こんなところで油売ってて、美人の女将さんに怒られないのかい?」
酒場の主人は笑って手を振る。
「いいや。俺の仕事は、客を回って、もっと酒を飲ませることなんでね。ちゃんと働いているよ。」
そう言いつつ、主人は言葉の通り、仕事をする手を休めなかった。
オギは、注がれたビールを一気に飲まず、今度は一口だけ口にした。
「女房は、酒の注文が増えて幸せ。俺は酒が飲めて幸せ。それに客から面白い話も聞ける。この仕事は、うまくできてるんだ」
客の一人が、突然大きな声で歌いだす。それにつられて、何人かの客が加わり、あっという間に大合唱になった。
主人は、一瞬振返り、即席の合唱団に向かって指笛を鳴らすと、またオギに向き直る。
「兄ちゃん、王都から来たんだろ。狩りをしに来たのかい?」
「そうだ。今日一日、山を歩き回ったんだがね。ウサギ一羽だって獲れやしなかったよ」
「そりゃそうだろうよ。もう狩猟の時期も終わりだ。獲物が獲れるとしたら、よっぽどの幸運の持ち主だな」
主人は、がはははと豪快に笑う。
「それで、その憂さ晴らしに飲みに来てるのかい?」
「まあ、そんなところだ」
「そうかい、そうかい。たっぷり飲んでいってくれ。ところで、連れはどうしたんだい?もう一人、騎士様がいただろう?」
カスガのことを訊いているらしい。
「ああ、あいつは、一人で飲むのが好きなんだよ。こういう騒々しいのはあまり好まないんだ」
主人は、禿げ上がった頭をぴしゃりと一叩きする。
「貴族の若様だったのを忘れてた。上品な若様は、こんな下品な連中と飲むはずがなかった」
「上品な貴族なんて、まったくかわいそうな奴らだよ。こんなにうまい酒を飲むことができないんだからな」
自分もその類に入ることを棚に上げ、そう言うと、オギはグラスを一気に空ける。
主人は、オギの飲みっぷりと気さくな人柄が、たいそう気に入ったらしく、自分のグラスとオギのグラスにビールを再び注ぐと、グラスを高く掲げた。
「「かわいそうな貴族どもに乾杯!!」」
主人は、しばらくオギと話していたが、グラスが空になっている客を見つけると、他のテーブルへと移っていった。
オギも残った酒を飲み干すと、店を後にした。
安酒場を除き、小さな村の夜が静かに更けていく。
安酒場を出たオギが向かった先は、宿ではなかった。オギは、宿とは正反対の方向をどんどんと突き進んで行く。村の広場を抜け、家が一軒、また一軒と減り、やがてすっかりなくなってしまうと、代わりにいくらか枝に雪を残した雑木林が現れた。林道の先は、村の裏山へと続いている。
木々に挟まれた窮屈な小道は、弱い春の日差しでは解けきれなかった雪で濡れ、滑りやすくなっていた。緩やかな傾斜、急な傾斜を繰り返す坂を、足を取られないように上り、息が軽く弾むようになる頃、やにわに開けた台地が、目の前に広がった。
台地の真ん中には、黒い森を背に小さな池が闇に沈んでいる。当たり前だが、真夜中をまわったそこには、オギの他誰もおらず、しんと静まり返っていた。
オギは、おもむろに池に近づくと池の水を一すくいし、口に運んだ。口の中でゆっくりと甘い水の味が広がる。水は、すくった手を突き刺すような冷たさであった。けれど、酔いを醒ますのには、丁度心地よい冷たさであった。
この池は、もとは小さな泉であったが、湧き出た水がたまり、池となったものであった。澄んだ池の水は、味がとてもよく、料理に使えば味わい深い一品に、酒に使えば極上の美酒に、薬を煎じるのに使えば万病の薬になるといって村人がよく利用していた。ただの池の水がこのような魔法の水になったのは、この池に泉の精霊が住んでいるからだそうだ。
「やっぱりダメか……」
人里離れた池の話を安酒場の親父から聞き、一目その泉の精霊とやらを見てみようと思い、ここまで足を運んだものの、池の水面は風で小さく波打つほか、何の変化も生じそうになかった。
「ここにカスガがいてくれたならなぁ……」
オギはひとりごちる。
精霊や魔物といった類のものの気配を感じることができる連れがいるならまだしも、それらのものに関して鈍感なオギ一人では、全くと言っていいほど見ることができないのである。
「しょうがない、帰るか」
池の淵から立ち上がると、もと来た道を戻るために踵を返そうとする。
しかし、ふと耳元で何かの気配を感じ、慌ててオギは振り返った。
池はどこも変わったところはない。オギは首を傾げる。
「気のせいか……」
再び身体の向きを変え歩き出すと、右手の崖の上から気配を感じた。今度は気のせいではなかった。ここからだいぶ離れてはいるが、木々の間から松明の灯りがちらちらと見える。オギは人数を数えた。
「一、二、三、……、六人」
こんな夜中に狩りをしているのかと思ったが、どうも違うらしい。彼らは何か探しているようだった。男の声が口々に「そっちは?」と叫ぶのが聞こえてくる。
オギが、男たちに気をとられていると、いきなり何かが崖を滑り下りてきた。崖の上の男たちもその音に気づいたらしく、気配がこちらの方に移動してきた。
「なんだぁ……?」
黒い小さな塊が、崖を滑り下りたときの勢いを止められずオギの目の前まで転がった。月のない闇夜では、人の目にはそれが黒い塊にしか見えなかっただろうが、夜目の利くオギの目には、粗末な身なりをした少年であることがすぐにわかった。
「う……」
「おい、大丈夫か?」
オギが問いかけると、少年はやや間を置いてから目を開き、オギと目が合った瞬間、がばっと跳ね起きた。
「あ……」
「おい、なにが起こっ……」
「いたぞっ!!」
男の怒声がオギの声を遮った。崖の上から松明を掲げた男が、オギと少年を見下ろしていた。その後ろから矢をつがえた弓を手にした男が三人現れる。矢じりの先はオギたちに向けられている。
「げっ、ウソだろ!?」
考える間もなく、男たちの弓の弦が甲高い音を発し、弦から放れた矢が空を切る。オギは、咄嗟に少年を巻き込むようにして前へ転がった。
オギたちがほんの数秒前にいたところに矢が深々と突き刺さる。
「馬鹿者どもがっ!!矢が当たったら何とする!」
気がつけば崖の上の男たちの人数が二人増えていた。新たに現れた二人のうち、背の高い年配の男が怒鳴り、矢を射た男の一人を殴り倒す。
「男は殺しても構わん!早くあいつを捕まえろ!!」
年配の男に叱咤され、崖の上の男たちが、次々に慌てて崖を滑り下りてきた。オギは少年を手早く立ち上がらせると、自分が来た道を示す。
「おい、この道をずっと行け。山を下りると村があるから、そこに助けを求めろ。道は一本道だ。早くしろ」
少年は頷くと、山を下る道めがけて走り出した。
「あ、おい、下り坂だぞっ。滑りやすくなってるから、気をつけ……」
オギが忠告し終わる前に、男の一人が斬りかかってきた。それをオギは軽くいなし、振り向けざまに鞘を払った剣の峰で強かに男を打つ。
「きゃあああああああぁぁぁぁぁ」
少年の叫び声が坂の下から響きわたる。
「あー、もうっ」
オギも一目散に少年が消えた坂へと走った。そして、その勢いのまま少年が倒れている脇まで滑り下りる。
「しっかりしろ!」
少年は目を開けない。それどころか、ぴくりとも動かなかった。
先程とは別の男がオギに追いつき、振り上げた剣をオギめがけて勢いよく振り下ろした。
「まったくもう、うっとうしいな!」
オギは、男の剣を自分の剣で受け止めると、そのまま相手の剣を絡め取り、遠くへ跳ね飛ばした。
丸腰にされた男は、最後の手段でオギに掴みかかったものの、オギに足を払われ、地面に倒れ込んだ。
しかし、その際にオギの服を掴んだ手を放さなかったために、オギも一緒に倒れ込むことになってしまった。
あとは互いに拳で殴ったり殴られたり、上になったり下になったりしながら地面を転がった。
二人は、先程オギが跳ね飛ばした男の剣のそばまで転がってきていた。剣は手を伸ばせば届く範囲である。男も当然、剣には気づいている。
オギと男は同時に剣に手を伸ばした。オギは柄の下部を、男は柄の上部を掴んだ。剣を何とか自分のものにしようと二人は必死に引っ張り合った。取っ組み合っての殴り合いが、いつの間にか剣の奪い合いに変わっていた。
力比べではやや男の方が勝っていた。あと少しで男は剣をもぎ取ることができた。男の表情に余裕が浮かぶ。
突然、オギが剣から手を放す。男は勢い余って後ろによろけた。
オギは、その隙を逃さなかった。剣を握った男の腕を掴むとその剣を男の腹に埋めた。
男は大きく目を見開き、剣を抱え込むようにしてくずおれた。
オギは息をつく間もなく、自分の剣を拾うと少年の元に駆け寄った。
少年は気を失ったままである。
「兄貴っ!?」
悲痛な叫びが、オギの頭に降りかかる。見上げると坂の上から男の仲間がもう一人顔を出していた。
仲間の死体を目にした男は、みるみる顔が怒りで歪んでいく。もし周囲が明るければ、きっとその顔は、憤怒でまた赤く染まっていたことであろう。
頭に血を上らせた若い男が、仲間の仇を討つために坂を駆け下りようとする。それを崖の上で男たちを叱咤した年配の男が止めた。若い男は、悔しそうにオギを睨みつける。
オギは、年配の男が若い男のかわりに相手をしに来るのだと思った。
しかし、年配の男は、一向に攻撃を仕掛けてくる気配はなく、胸の前で軽く手を合わせると、何かしきりに呟いていた。
男が言葉を紡ぐたびに、あたりに冷気が立ち込める。
「うわっ、やば……」
ただならぬ雰囲気を感じ取り、オギは脱兎のごとく少年を小脇に抱えると、後ろも振り返らず山の斜面を滑った。
山道を逃げなかったのは、少しでも敵から姿を隠すためであった。また、走るよりも斜面を滑った方が、早く敵から離れられるので都合がよかった。
オギが山の斜面に逃げ込み、いくばくもしないうちに、後方から冷気を含んだ風が凄まじく吹き荒れた。冷気が這った地面は一面氷となり、冷気が通り抜けたところの木々は、氷の木と化していった。
オギの耳に物が凍る音が届く。全てを凍らせる冷気が、オギの背後に迫っていた。
途中、木の枝に外套を取られ、茂みで無数の擦り傷をつくることになっても構わず、オギは山の麓目指し、ひたすら斜面を滑り続けた。
山の麓も目前となったころで執拗に追ってきた冷気が、その威力を失っていった。おそらく男の力が届かなくなったか、男が力を使うのをやめたかのどちらかであろう。
しかしオギにとっては、どちらでもよいことであった。なんとか危機を脱したことに胸を撫で下ろす。
山の台地では、オギたちを取り逃がした男たちがたたずんでいた。年配の男と若い男が、オギたちが逃げた山の斜面をいつまでも見下ろしている。若い男が、ギリッと歯軋りした。
「どうした?」
彼らが声に振り返ると、三人の男が、悠然と歩いてくるところであった。一人は、オギに剣の峰でしたたかに打たれた男、もう一人は、松明を持った男、そして最後の一人は、先程崖の上で年配の男とともに現れた男である。
最後の男は、男たちの中で一番年若く、身なりも他の男たちと比べ、小ぎれいであった。身体の線は細く、青年期にさしかかった顔には、まだあどけなさが残っている。
少年は、柔らかな笑みを浮かべ、ゆったりとした物腰で年配の男たちを見る。
「取り逃がしたのか?」
「申し訳ありません」
少年の問いに年配の男が答える。
「お前がやってだめだったんだもの、仕方ないさ。それにしても、お前の魔法から逃げ切るなんて運の強い男だね」
ただ恐縮しきりの年配の男の傍らで、少年は、にこにこと楽しそうに笑う。
「追いますか?」
少年が答える前に若い男が口を挟んだ。
「追わせてくれ!! 俺が、必ずあの野郎をとっ捕まえて、殺してやる!」
怒りを顕わにし、少年に向かってまくし立てる若い男を、年配の男が咎めるような目つきで見る。しかし、若い男は、そんなことお構いなしに感情のまま喚き続けた。
「止められてなけりゃ、俺があの野郎を殺して、今頃はガキも手に入っていたはずだ! なぁ、今からでも遅くないだろう。俺にやらせてくれ!!」
少年は、右手を顎にやり、考える素振りをしながら、坂の下で事切れている男に一瞥を投げた。
「追わなくていい。しばらく様子を見よう」
「しかしっ……」
年配の男が、食ってかかろうとする若い男に右手を向けて黙らせる。
「どこへ逃げたかわかっているんだし、そう焦ることないんじゃない? 彼、村人じゃないみたいだから、明日になれば、神殿か医者のところにでも連れて行くかもね。それに……」
少年は、言葉を切ると、闇で黒く染まった瞳にいたずらっぽそうな笑みを浮かべる。
「楽しみはあったほうがいいじゃない。彼が楽しませてくれるって言うんだから、楽しませてもらおう」