オリジナル小説 アマガセ 番外編
「オヤジ殿の休日」
朝靄の中、ある家の戸が、軋んだ音をたてて開き、その内側から一人の男が出てきた。男は、門から庭の方を振り返って家の様子を窺い、誰も来ないことを確認すると、安心して門の外へそっと足を伸ばした。
しかし男が、一歩踏み出すか出さないかという内に、外套をものすごい勢いで掴まれ、男は庭に引き戻されてしまった。勢い余ってつんのめりそうになる男の目に、白いシーツと海老茶の長い髪が飛び込んできた。
「おはよう、あなた。こんな朝早くからどちらへお出かけかしら?」
「おっ、お前!? どうして……?」
呆気に取られ、呆然としている夫に、妻は艶然と微笑む。
「目が覚めたら、ベッドにいないんですもの。まさか、と思って慌てて出てきて正解でしたわ。それより、またお仕事ですか? 三ヶ月ぶりに帰っていらっしゃったのに、仕事、仕事と、たまの休日くらいゆっくりできませんの?」
夫は妻の姿を見て、顔を赤らめ、口をぱくぱくさせるだけだった。妻は、薄い寝間着の上にシーツを巻きつけた格好で、外に出てきていたのだった。表の通りには、朝早くといっても既に仕事に出かける人々がいて、彼らは通りがけざま、興味深そうに二人を眺めていく。その大半の興味は、朝っぱらからの夫婦喧嘩より、妻に向いていた。
「なっ、なっ、何て格好してるんだ! 早く服を着なさい。あ、いや、それより早く家に入りなさい!」
「いーえ! あなたが、今日一日出かけないと約束してくださるのが先です!!」
「わっ、わかった。約束でも何でもするから、早く家に入りなさい!!」
夫は、妻が家に入ってしまい、いかにも残念そうな表情の通行人が見ている中、あたふたと門を閉めると、自分もまた家に入っていった。身支度を終えた妻が、居間のテーブルに、てきぱきと二人分の皿を並べていた。夫は、居心地悪そうに長椅子の端に座り、妻の様子を目で追っている。やがてコホンと、ひとつ咳払いすると、ぼそっと呟いた。
「あ〜、人と会う約束があるのだが……」
「昨日、帰ってくるなり体調が優れないとおっしゃっていたのは、どこのどなた? それに、今日は出かけないと約束してくださったではありませんか」
「だがな、これもユゲのためなんだよ」
「あなたが、ユゲと一緒に過ごしてくださる方が、よっぽどユゲのためになりますよ」
妻は、夫の話に耳を傾けながらも、その手は休めず、朝食の支度を済ませてしまうと、奥の部屋から外套と小さな包みを持ってきた。
「さてと、あなた、私は出かけてきますから、ユゲの面倒を見ていてくださいね。多分、夕暮れ時までには戻ってきますから。それから、朝食はそこに。ちゃんとユゲにも食べさせてくださいね」
「あっ、おい、病人に子守をさせるのか? だいたい、いつもの女中はどうしたんだ? ユゲの面倒は、彼女に見させればいいだろう?」
「あなたはご存知ないでしょうけど、彼女はここ一週間、実家に帰ってますの。娘さんがご病気なんですって。それで、今から彼女の家にお見舞いに行きますの。だからあなた、くれぐれもユゲのこと、よろしく頼みますよ」
鮮やかなエメラルドの瞳が強く光り、夫に有無を言わせなかった。
こうして、妻は晴れやかな笑顔で出かけ、夫は不機嫌な顔で家に居残ることとなった。妻が出かけてからというもの、夫は休みなしだった。起きてきた息子に顔を洗わせ、服を着せてやり、朝ご飯を食べさせてやる。それから食べ終わった食器を片づけ、洗ったばかりの洗濯物を干す。普段やり慣れている妻なら造作のないことだが、家事と育児を同時にこなしたことがほとんどない夫には、骨の折れる仕事であった。
夫が少し目を離すと息子は、部屋の中を駆けまわって物を落としたり、戸棚の中を探って中の物をみんな出したりと、夫の仕事を次から次へと増やしていった。
「ユゲ、母さんから何かやるように言われなかったか?」
息子は、動きを止め、きょとんとする。
「何も言われなかったよ」
「勉強は? しないと母さんに怒られるんじゃないか?」
「今日はやんないでいいって言ってた」
「そ、そうか。じゃあ、外に遊びに行ったらどうだ?」
息子はちょっと考えて、
「やめとく。一人じゃつまんないもん」
「な、何で? オギやミネたちと一緒に遊べばいいじゃないか」
「今日はみんなどっか行くんだって。それよりオヤジと遊ぶ」
何とかして子守から開放されたい夫だったが、他に上手い口実が見つからず、しばらく息子の相手をすることになった。
夫は息子に剣を持ってくるよう言い、先に庭に出る。息子は自分の身の丈ほどの剣とその半分の丈しかない剣を抱え、急いで走り出てきた。
夫は息子に剣を取らせ、自分も取ると、まず剣の使い方を教えた。息子は何度も父親めがけて打ち込んでいくが、そのたびに父親に突き飛ばされ、あっという間に全身傷だらけの泥だらけになった。それでも息子は瞳を爛々と輝かせ、稽古に夢中になっていた。
こんな光景がしばらく続いたが、夫の方が息子の相手をできなくなった。
「ユゲ、悪いがここまでにしょう」
息子は、不満そうな顔をしたが、渋々父親の言うことをきいた。
夫は、息子の身体をきれいに洗ってやり、それから傷の手当もしてやった。しかしそうしている間中、ずっと悪寒がしていた。
薬箱をひっくり返し、薬が置いてありそうなところも探してみたが、風邪薬は見当たらない。息子にも訊いてみたが、幼い息子が知っているはずもなかった。
仕方がないので、二階の自分の部屋で横になっていると、息子がやって来た。
「オヤジ〜、これ」
そう言って息子が差し出したのは、丸っこい小さな椀だった。
「隣のおじさんが、風邪にはこれが良く効くって言ってた」
「そうか、ありがとう」
受け取った椀を見ると、中には白湯が入っている。白湯が効くのかどうか疑問に思いつつも、夫はそれを一気に飲み干した。するとそれが白湯ではないことに気がついた。
「ユゲ、どっからこんなのを持ってきたんだ!? これは酒じゃないか!」
「うん、そうだよ」
息子は別に驚きもしない。それどころか、にこにこと父親の顔を見ている。どうやら、風邪に効くと信じているらしい。怒るに怒れない夫は、隣の飲んだくれオヤジを恨みつつ、空になった椀を息子に返す。
再び一人になると夫は、横になった。さっきより気分が悪い。何だか部屋がぐるぐる回転しているようだった。それでもしばらくすると、いつの間にか眠ってしまっていた。「なんだ……?」
階下で派手に物が壊れる音で、夫は目を覚ました。飛んで階下に行ってみると、床一面に割れた食器と鍋の中身が散らかっていた。その真ん中には息子が立っている。
「ユゲ!! どうしたんだ、これは? 怪我はしてないな?」
息子はこっくり頷く。
「ご飯……」
気が付けば部屋は西日で朱に染まっていた。時刻はもう夕方だった。夫は、自分がずっと寝ていて、息子に朝食の他に何も食べさせていないことに、今更ながら気づく。
「ああ、悪かった。今何か作るから。と、その前にここを片づけるから、あっち行ってなさい」
息子を居間にやると、夫はほうきを探しに行こうとした。ちょうどその時、扉が開き、妻が笑顔で帰ってきた。
「あなた、ただいま帰りました。……あら、あなた?」
夫は、妻の姿を見ると、その場に固まってしまった。そんな夫の様子を不審に思った妻が、夫の肩越しに部屋を覗く。
「きゃ――――――――――――!!」
部屋の惨憺たる状態に、妻の笑顔は一瞬にして消えてしまった。
「あなた!! これはどういうことです!? 三日三晩かけてつくったスープが台無しじゃありませんか。それに高価な食器を割るなんて! あなた、何してらしたの?」
夫が返答に困っているところへ息子がやって来た。夫は、まずいと思ったものの、時既に遅し。息子を一目見て妻は全て見通してしまった。
「オヤジ〜、お腹空いた。あ、母さん。お帰りなさい。今日ね、オヤジに遊んでもらった」
「そう、良かったわね。母さん、父さんにお話があるから、向こうに行っててね」
そう言って振り返った妻の顔は、鬼の形相であった。妻は、部屋の片隅に無造作に立て掛けてある剣を指差し、夫に詰め寄る。
「あなた、ユゲにまた剣を教えたのね? 私はいつも剣を教えるより、勉強を教えてくださるよう言っているじゃありませんか。何で私の言うことを聞いてくださらないの? それから今までずっと寝てらしたの? 出がけに、ユゲの面倒を見て下さるよう、頼みませんでしたかしら? ちょっと、あなた聞いてらっしゃるの?」
夫は、突っ立ってじっと妻の説教に聞いていたが、それも限界だった。さっきまで治まっていた悪寒が、再び夫を襲う。
(ああ、聞いてるよ)
夫は返事をしたつもりだったが、頭は熱で朦朧とし、はっきりと言葉にならなかった。
風邪で倒れた夫は、細腕の妻に半分担がれるようにベッドに連れて行かれ、そこで看病された。もちろん妻によって。
しかし看病している間も、妻の口は黙ることを知らなかった。
「ユゲの面倒はろくに見てくださらずに、一生懸命作ったスープはダメになさるし、キレイに掃除しておいた部屋は、出掛ける前よりひどくなさるし、してくださったことといえば剣を教えただけ。これでは、何のためにいらっしゃるのか。全く……」
さらに続く。
「だいたい風邪気味で体調がお悪いなら、大人しくしていらっしゃればいいのに、それを無理して運動なさるから、こんなことになるのですよ。おまけに薬が見つからないから、強い酒を薬代わりにお飲みになるなんて……」
多少誤解されているのを感じながらも、口では妻に敵わないことを知っている夫は、妻に好きなように言わせておいた。そしてその甲斐あってか、夜中には妻の説教も一通り終わったのであった。
Fin.